奥村式資産運用術

バブルの崩壊

いまでもよく話題に上る昭和のバブル経済。

バブルというのは、泡で、中身のない、という意味で使われたもので、バブル経済ということばは、私の知るかぎり、昭和のバブル経済がはじけた後に使われ始めた単語だったかと思います。

バブルは、事前にはわからず、バブルの真っ最中でもわからず、はじけて初めて、それがバブルであったことがわかる、ということでもあります。

さて、このバブル経済は、日本の繁栄の象徴でもありました。

1989年の世界のGDPは米国に次ぐ世界2位でした。

1位米国はGDP 5.6兆ドル、日本は3.1兆ドル、3位のドイツは1.3兆ドルでした。

ひとりあたりのGDPでは、なんと1988年は日本は世界2位(25.575ドル)で、米国は9位(21376ドル)だったのです。

1989年も、非常に良い経済で、ひとりあたりのGDPで世界4位。上にスイス、ルクセンブルク、スェーデンがあるのみでした。
(以上の数字は、IMFの統計より著者作成)

しかし、1989年に株価のピークを迎えたバブルは、翌年あっさり終焉を迎えます。

バブルをつぶすために、最初に口火を切ったのは日銀です。

1989年5月、株価が3万円台に乗せたころですが、このころから日銀は公定歩合をズンズンと引き上げていったのです。

それでも1989年のうちは、なんとか株価は伸びていったのは、勢いがあったからでしょう。
しかし、1990年になると、一気に失速。

1990年10月1日には、バブル後最安値20221円を付けます。38915円からみると、実に-48%です。
たった9カ月で、ほとんど半値になった、ということですね。

でも、それだけであれば、経済全体が沈没はしませんでした。

株価はかなり下がったものの、地価の上昇は止まっていなかったのです。
銀行による、不動産融資が伸びに伸びていたので、土地の異常な値上がりが止まらなかったのです。

それに終止符を打つために当時の海部内閣と橋本大蔵大臣が編み出したのが、銀行に対して、
不動産向け融資を強制的に止めるルールの通達でした(1990年3月27日 土田銀行局長通達)。

大蔵省は、当時銀行の監督官庁だったので、効果はてきめん、新規融資は一気にストップし、バブルがはじけました。

株も、不動産も、劇薬を飲ませたようなもので、急ブレーキがかかりました。

そして、気が付いた時には手遅れで、株は半額まで暴落、銀行は担保価値がなくなった不動産の処理に困り、貸し付けも焦げまくることになります。

バブルの発生は、世界で金融自由化が進む中、金融当局が金融自由化における自らの役割と影響を理解していなかったから、といえます。

そして、いきすぎたバブル経済を抑えようとするあまり、稚拙な金利政策を繰り返した日銀と大蔵省のおかげで、ハードランディングにも失敗し経済が炎上して、とりかえしのつかない事態になったのです。