From:奥村尚
東京のオフィスより、、、
おはようございます。
投資の世界には
いろいろな格言があります。
そのひとつ「FEDに逆らうな」は聞いたことがありますか?
FEDというのは、FRBのことです。
FRB(Federal Reserve Board)は、アメリカの連邦準備委員会で、
日本流にいうと、日本銀行です。
なかでも、FRB(Federal Reserve Board)は、
アメリカの連邦準備委員会で、
日本に置き換えて表すなら
日本銀行のようなものになります。
ですから、日本だと
日銀には逆らうな、
ということになるでしょうか。
さて、もうずいぶん昔の話になりますが、
山一証券が倒産した最大の理由は
巨額の簿外債務の表面化でした。
そして、その簿外債務を
増やした理由のひとつが、
国債を一人買い向かったことにありました。
当時、日銀は
金利を引き締めにかかっていて、
1990年8月には誘導金利
(当時は公定歩合といっていた)を
6%まで上げたのですが、
債券価格はどんどん下がっていったのです。
(※金利が上がると債券価格は下がり、
金利が下がると債券価格は上がります)
つまり、山一証券はある意味、
日銀に逆った売買をしたわけです。
いわば、日銀に逆らって
倒産したとも言えるかもしれません。
ところで、その中央銀行に
戦いを挑み、勝った人物がいます。
伝説の人物、ジョージ・ソロスです。
彼は下記のようなストーリーで
英国の中央銀行に売り向かい、
勝利をおさめました。
まず、当時の英国とドイツの
経済状況を確認してみましょう。
1990年、英国はEC内での為替レートを
一定の範囲に納める体制(ERM)に
参加していました。
各国の通貨の足並みをそろえ、
新しい通貨(ユーロ)へ移行するという
壮大な構想を実現するためです。
ですから、イギリスはERMの規制に従って
1ポンド=2.95マルクに設定し、
かつその状態を
安定させていく必要がありました。
(※マルクはユーロに移行する前の
ドイツの通貨です。)
ただ、当時の英国の経済力は、
時間の経過とともに、
低下傾向にあったので
本来であれば、利下げをして
景気を刺激すべき時期だったのです。
しかしその一方で、
ドイツは1990年に
東西の統一を図った後だったので、
インフレが上昇していました。
ですので、ドイツは利上げをして
金融の引き締めを行う必要があったのです。
このように、この2か国には
本来、互いに正反対の金融政策を
必要としていた背景がありました。
英国に金利を引き下げる必要があった一方、
ドイツの中央銀行であるブンデスバンクは、
他国の国内事情のために
金利を下げることには反対でした。
金利を下げた結果、
インフレが起こることを恐れたのです。
しかし、ドイツが
金利を引き下げない限り、
他国が金利を下げることはできません。
一国だけ金利を引き下げれば、
それが自国の通貨を弱くすることにつながり、
暴落する危険性があるためです。
そして、この駆け引きは結局、
ドイツの意向に合わせるかたちで終結し、
英国は中央銀行である
バンクオブイングランド(BOE)が
利上げを行いました。
この影響を受け、
英国はその後みるみるうちに
景気が低迷していきます。
もともと、サッチャー政権期の金融政策で
改善傾向だった失業率も
ERM参加後に再び悪化。
1992年には10%近くまで
失業率が上昇し、
会社の倒産は戦後最悪となりました。
さて、このような
低調な経済状況のなかで
ソロスが何をしていたかというと
非常に大きなポンドの売りに出ていました。
過大評価されたポンドに対して
売り圧力が強まった市場状況のなか、
ソロスは、ポンドの水準は
本来もっと安いはずであり、
過大評価されていると考えていたからです。
実際、ソロスが予想したように、
1992年EUは歪が表面化し
金融危機が訪れました。
また、イタリアでリラが
7%切り下げられたのも
同じくこの頃でした。
これを知ったソロスは、
次はポンドだと考え、
100億ドル相当のポンドを売ったのです。
結果、英国はソロスの予想通り、
ERMから撤退。
ジョージ・ソロスが率いる
ヘッジファンドは
これで10億ドルもの利益を得たといわれます。
その後の1993年以降、
英国経済は復調していきます。
ちなみに、ドイツ連邦銀行は
ポンド防衛に協力しませんでした。
このときの経験が、
英国がEUに加盟しながら
通貨だけはポンドにこだわった
理由とされています。
こうした歴史もまた、
ヨーロッパやヨーロッパの市場を
理解する上で知っておくと
良い知識のひとつかと思います。
さいごに、
別の格言を添えておきましょう。
「市場は常に間違っている」by ジョージ・ソロス
奥村尚