奥村式資産運用術

投資判断の基礎となる「日銀の影響力」とは?

From:奥村尚
都内のオフィスより、、、

こんにちは。

先週は、「金利の調整」の話をしました。

いかがでしたか?

1994年以降は、金利が自由化されたため金融市場で調整することになった、という先週の内容から今回は続きます。

皆さんの投資に関わってくる現在の日銀の役割、市場への影響力についてお話していきましょう。

“金利自由化”は、世界的な金融自由化の流れの一環で、日本でも1991年から3年間もかけて用意周到に進めてきた規制撤廃でした。

日銀は金融市場、特に、金融機関同士が一日だけ(オーバーナイト)貸し借りする市場(コール市場)に対して金利を示す(誘導金利)ことで、公定歩合の時代と同等の成果をあげるようになります。

“コール市場”は無担保で大金を信用だけで貸し借りできる、特殊な市場です。

普段は市中銀行や証券会社同士(民間金融機関)で取引をします。

しかし、民間金融機関同士で融通できなくなったときには、日銀に担保を差し出して、なんとかお金を借ります。

これは“基準貸付金利”と呼びますが、公定歩合と似た働きをしていてコール市場の上限金利となっています。

これが日銀が担う、公定歩合に代わる現在の役割ともいえます。

このコール市場は
為替と並ぶ重要な銀行間取引(インターバンク)市場で、世界中の金融機関が24時間動き続けています。

ちなみに、
1997年11月に山一証券(山一)が倒産したのは、手元現金が枯渇して資金繰りが行き詰まったのが直接の原因となりますが、

僕がちょうど仕事でウォール街に行っていた時で、「ウォール街ではオーバーナイトで山一に貸すな」と多くの金融機関がインターバンク市場で資金貸出を渋っていた事を思い出しました。

インターバンク市場は無担保で大量の現金を貸し借りするので、1社でも倒産すると連鎖します。

そうなると大変ですから、経営があやしい金融機関にはそもそも貸さないのです。

結局、
山一は資金を調達できず、日銀からの助けもなく、最後は倒産(自主廃業)の道を歩みました。

山一といえば、かつて
1965年にも一度倒産しかかりました。

戦後の証券不況の時、やはり”資金繰り”に行き詰まったのです。

戦後の大きな成長を前提に経営を押し進めてきた大手証券はみな苦境に立たされましたが、山一は特に苦しく、再建計画を大蔵省の下で進めていたのです。

大蔵省はその事をマスコミに報道自粛をかけていたのですが、結局リークされて、山一の取付き騒ぎに発展しました。

“取付き騒ぎ”というのは、噂やデマを含め信用不安が原因で預金者が殺到してお金を引き出す事をいいます。

銀行の預金引き出しだけではなく、証券会社の口座解約、保険の解約などで起こります。

金融システム不安の連鎖が起こるとその取引先を中心に一般企業へも連鎖するので政府や中央銀行が支援をするのです。

当時は日銀が山一に対し無制限、無担保で融資する事を即日発表し、騒ぎは沈静化しました。

当時の大蔵大臣、田中角栄の英断でした。
(この後、日本は成長を継続し、ついに1968年にGNPが西ドイツを抜いて世界二位に躍り出ます。)

1997年の山一の廃業発表後には、顧客保護のために”日銀特融”が実施されています。

なぜ、1965年のように倒産する前に日銀特融を実施しなかったのかは、いろいろ説がありますが、、、

おそらく、“総会屋に対して利益供与をし、かつ粉飾決算を行う”というダークさによるものであった、といわれています。

少しそれましたが、今週は日銀の役割の変化をお伝えしました。

難しいように思えるかもしれませんが、日銀の基本の役割を踏まえておけばニュースや政策の理解も深まり投資判断の基礎とすることができます。

次回は、現在のキーワードでもある”量的緩和”についてです。
あいまいだな…と思う方は、是非読んでみてください。

お読みいただきありがとうございました。

奥村尚